旅せよ、ひやま(檜山)

誰も教えてくれなかった、ひやまが見つかります。

ひやま今昔

STORY.2

ニシンが告げた、江戸にも勝るひやまの春
揺れる時代に翻弄される

story2

1789年瀬戸内海から日本海を廻る
北前船が登場
「江差の五月は江戸にもない」
とその賑わいは謳われる

北前船が登場

天下の台所と呼ばれた大阪とえさしを往復し、大阪ではえさしの商品・えさしでは大阪の商品を売買していた商業船、それが北前船だ。当時のえさしでは浜に落ちているニシンを拾うだけで3両(現在の24万円ほど)になったと言われ、武士も医師もニシン漁を営んでいた。豊漁期の5月ともなると、その賑わいは江戸にも勝ると言われるほど。北前船は様々な物資と共に文化も運び、えさしの風土と融合させた。街中には日本海の風雪に耐える仕様のえさし商家建築が立ち並び、江差追分節・鹿子舞・姥神祭りなど独自の文化が発展していった。国の重要文化財・旧中村家住宅で、当時の姿を垣間見ることができるだろう。文化の発展に一役買った商人たちの根底を貫くものは「安物買いの銭失い」という心情で、今もえさしに本物志向という形を残している。またえさしには繁次郎というキャラクターがいる。この男はこの頃に笑いを振りまいたとんち名人で、今でもえさしの至る場所で活躍中だ。松前の繁栄と栄光をもたらしたニシン。しかし、明治へ時代が向かうと共に次第にその姿を消していくこととなる。

1806年幕府から遠山の金さん御一行が
松前を巡視
大田から山道を超えて
せたなに滞在する

遠山の金さん御一行が松前を巡視

1869年ひやまに訪れる
幕末の戦火
おとべに1,300人の旧幕府軍が
上陸する

おとべに1,300人の旧幕府軍が上陸

時は幕末。当初徳川幕府寄りだった松前藩の政権はクーデターにより勤王過激派に様変わりし、旧幕府軍は松前藩に降伏を薦めるも使者は2度に渡って殺害される。そこで旧幕府軍は当時最強といわれた軍艦「開陽丸」を始めとした新式の装備で土方軍を松前城へ派兵。追い詰められた藩兵は町の各所に火を放ちながら、藩主のいた現在のあっさぶ町にある「館城」へ逃亡した。「館城」は新政府が対国外への抑止力となるよう建設を許可したものだったが、「館城」の建設を押した人物がクーデターを仕掛けた張本人だったという顛末だった。またこの頃新政府は諸外国に侵入を許す松前藩に蝦夷地を任せてはおけないと、新たに函館港を整備。松前藩の江差港と新政府の函館港、新時代の波がその後の海上アクセスを塗り替えてしまう流れとなった。その後旧幕府軍は松前藩を追い詰めるも、江差に停泊させていた開陽丸が暴風により沈没。江差には榎本と土方が嘆きながら叩いた松の木が今でも残されており、1990年には開陽丸が海底から引き揚げられ青少年センターとして原寸大で複製されている。また当時の伝説として、官軍と幕軍の武士が遭遇するも松の枝を切って刀を収めたという「首切りの松」がかみのくにに残っている。

1897年日本で最初の女医
荻野吟子の医院がせたなに開院

日本で最初の女医 荻野吟子

1939年かみのくにで
今井石崎鉱山・中外鉱山が
マンガン鉱開発を始める

今井石崎鉱山・中外鉱山

明治維新後、国策は一変。日本は駆け足で欧米列強に追いつくため、富国強兵を唱えた。その政策のひとつが屯田兵の導入である。これは各地に残された士族の救済をすると同時に、すでに蝦夷地へ侵入し始めていたロシアに対する牽制策だった。また国策を受けて鉱山が各地で発展。ひやまでは元々金山が採掘されていたが、明治に入ると造船や兵器開発のためマンガンの需要が高騰。およそ10ヶ所近くの鉱山が操業を始めた。中でもかみのくにのマンガン・鉛・亜鉛の中外金属鉱山は1986年まで操業し続け、マンガンを精製するための焙焼炉が並ぶ跡地は北海道の産業遺産に認められている。当時は中外鉱山従業員と家族の住宅が244戸。診療所・浴場・配給所・村立若葉小中学校・各種商店が立ち並び、早川という地名さえあるほど栄えていた。最盛期の人口は1,500人以上。これらの鉱山は国の近代化はもちろん、この後起こる第1・2次世界大戦にも大きく貢献することとなる。第2次世界大戦時、道内も空襲で多くの街が焼けた。しかしながらひやまは宗谷と並び、全域で空襲被害のなかった数少ない土地である。そのため長い歴史を持ちながら、何ひとつ焼けなかったひやまには多くの国指定文化財が残っているのだ。

1947年地方自治法の施行により
北海道ひやま支庁の管轄となる。

地方自治法の施行
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