旅せよ、ひやま(檜山)

誰も教えてくれなかった、ひやまが見つかります。

ひやま今昔

STORY.1

神話と史実が混ざり合う中世、
ひやまが生まれた最初の記憶

STORY1

1189年蝦夷まで逃げた
弁慶と義経
北海道に移り住んだ最初の人々

北海道に移り住んだ最初の人々

ひやま地方へ和人が本格的に移住したとされているのは、およそ800年前のこと。当時の奥州を治めていた藤原泰衡が源頼朝に攻め入られ、追い詰められた藤原一族がおとべへ逃げ込んだとされている。ここで面白いのが、その一族と共に源義経も移り住んだという伝説だ。元々藤原泰衡が源頼朝に攻め入られたのは源義経を匿っていたからで、史実によると藤原泰衡は義経の居場所を話し、義経は自害したとされている。しかし北海道には多くの義経伝説が残されており、義経が最初にたどり着いたとされるひやま地方には多くの逸話がそこかしこに残されているのだ。特に最初の2年を過ごしたとされるおとべ町には伝説が色濃く残り、おとべの人たちは今でも静御前が義経と逢えずに待ちわびた峠を「姫待ち峠」、乙部岳を「九郎岳」、そこを水源とする川を「姫川」と呼んで二人の悲話を偲んでいる。おくしり島は義経がどんな事態も解決してくれる魔法の巻物を使って作り出したという伝説があるくらいなのだ。おとべへ逃れた人たちは、ここからアイヌの人々との交流を通してひやま地方に定着していくのである。

1216年集められた無法者、約50人
鎌倉幕府による
夷島(えぞがしま)への追放

鎌倉幕府による夷島(えぞがしま)への追放

1457年武田信廣が
アイヌの人々との騒乱で勝ち取った、
300年続く松前藩の礎

武田信廣

この頃から積極的に、本州から人が北海道南部へ流入していく。多くの和人集落が形成され、道南の沿岸には「十二館」と呼ばれる豪族の拠点が立てられた。12のうちの2つがかみのくににあり、「比石館」「花沢館」と呼ばれていた。しかし1457年、殺傷事件を境にアイヌと和人の諍いが発生。首長コシャマインに率いられたアイヌ諸部族は十二館全ての拠点を襲撃した。これがアイヌ第三蜂起のひとつである「コシャマインの戦い」である。館は次々と陥落し、残されたのは北斗市にあった茂別館と花沢館のみ。比石館の城塞跡にはこの騒乱で討死にした重政が館下の石崎川へ身を投げ、川のヌシとして大鮫になったという伝説が残っている。この騒乱を制したのは、当時花沢館に客将として招かれていた武田信廣。少ない手勢ながら巧みな戦略でコシャマインを討ち取ったのである。その功を認められ武田信廣は花沢館の館主であった蠣崎季繁の養子となり、子孫である5代目慶廣は豊臣秀吉から蝦夷地の統治を任じられたのをキッカケに「松前」へと改姓。松前藩が少しずつ築かれていった。

1666年今でも信仰を集める、
かみのくににある6体の円空仏
生涯で12万体の仏像を彫り続けた仏師、
円空が北海道に渡った

かみのくににある6体の円空仏

1751年徳川吉宗が行った
「享保の改革」により
ひやまは、ニシンの煌く最盛期へ

「北前船」時代の到来

松前藩の交易が行われ始めたのは1630年。当時は城下福山・えさし・箱館の3港のみであり、現在では自生地が国の天然記念物として登録されている「ヒノキアスナロ」をこの頃から交易品として扱っていた。1664年にはヒノキアスナロ山守護神総社である「江差山神社」も創設。ヒノキに材質の似たヒノキアスナロは需要が高く、この地方が「ひやま」と呼ばれることにも由来するほど松前藩の欠かせない財源であった。元禄期に入ると幕府の商品作物の奨励策である「享保の改革」により、交易品のひとつであったニシンの需要が急増。松前藩は武士ではなく経営に長けた商人に交易権を任せることで、飛躍的にニシンの増産に成功した。松前藩はこのとき最盛期。当時、ニシンは「鯡」と書かれていた。藩の豊かさは米の収穫量で決まるが、松前に米はない。そのため藩の財源を支えるニシンは「魚に非ず、米である」と言われていたほどなのだ。この最盛期を機に商人の台頭や貨幣経済が流通を促し、港は自由競争・利潤追求主義へと変わっていく。「北前船」時代の到来は当然の流れであった。

1782年江戸四大飢饉と呼ばれる
天明・天保の大飢饉が発生
ひやまに東北からの人が増えていく

ひやまに東北からの人が増えていく
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